discussion とは

2020年10月

オンライン授業というのを経験してからというもの、私の意見はがらりと変わった。

最近、高校の英語の授業でものすごく行ってきたdiscussionたるものをオンライン授業だということもあり、やってないな~と思ってきた。正直言ってしまうとdiscussionをやらないというのはなぜだか、心地がいい。気が楽という感覚に近い。

 

そもそも、自分の意見というものを無理に共有する必要なんてあるのだろうかと思ってきた。高校でのdiscussionの目的はぼーと生きてる私たちにもっと考える癖をつけるというもの。しかし、今の私は常に拙いながらも何かを考えている。仲間の意見を聞くことで刺激を受ける。だが、その刺激の受け方というものがなんか違うと直感が言っている。私の場合、計画的に行くより、直感でものを進めたほうがうまくいく(もちろん凸凹はあるがより満足しか結果が得られるという意味で。)そして、その直感が違和感というものを覚えている。ちょっと違うなと覚えた直感だけでものを語ってしまうのは早急かもしれない。では、なぜそんなことを感じてしまうのかという事の発端を考えてみた。例えば、私が最近discussionした中でのtopicは環境問題、Gender Studies、人権問題、日本経済などなど。どれもよりよい未来をつくるために直結するようなtopic。ただ、discussionをしたところで何が変わる。ぺらぺらと偉い口をたたいて自分は賢い人間です、と自分に言いつけているようにしか最近思えなくなってきた。より良い未来のためにdiscussionをしたところでこの世界は絶対に変わらない。変えようと努力してもそれは単なる自己満足だとしか思えない。

 

こういう自分勝手な意見を持ってしまうのにも明らかに理由がある。それは自分には守るべき存在というものが何一つないからだ(と思う)。もし、仮に今、自分に子供がいたらこんなにも自分勝手な意見というものは絶対に持たないと思う。少なくとも、近い未来のことまでは考える。ただ、分からない。もしその子供も、私とおんなじ意見を持っていたら安心して、考えを戻してしまうかもしれない。

私は、この世、この世界、この社会に対してなめてかかっているという自覚はある。大人になるというのは、この貴重で弱い違和感という蟠りを踏みにじって生きていかなければならないのか。だとしたら、そんなのはロボットという心すら持たないものに任せたほうが絶対に効率的。自分という存在は、自分の心というものに忠実に従って初めて確立さえるものだと私は思っている。つまり、その自分の心を破棄してしまうというのは自分の存在意義というものを同時に捨てていることに値するのではないか。と。

正直、教授に褒められようと、先生に褒められようと、指示に従ってその中で自分の全力を尽くしているときよりも、こうしてタブーかもしれないけれど自分の考えというものに忠実に従ってそれを文字化してだんだんと自分というものを確立しているときの方がよっぽど生きているという実感を得られる。

 

 

今まで、自分が率直に思った意見などは、特に誰に言うわけでもなく日記みたいにノートに書いていたけれど、今になってこうして誰かの目が届くような場所に自分の考えというものをさらしだしてしまうというのはそれだけ自分の心というものが限界を迎えているのかもしれない。

結局いつまでも偽物のまま。心が歪んでいてぐうの音も出ない。

これを読み直して恥ずかしく感じたらこの投稿を消そうと思うので明日の朝にはもうなくなってると思うが、そんな消すということを忘れてもしかしたらずっと残っているかもしれない。こんなにもくだらないことまで書いてしまうのは俗に何というのか。

まあ、深夜テンションとでもいうのだろう。