別に自分は特別じゃない。

別に自分は特別な何者かにはなれないし、そこら辺の一般人ABCとかにしかなれないんだ。
そう悟った瞬間から肩の荷がスッと下りる感覚がして、それからそいうもの人生がなんだかずいぶんと軽やかになった気がした。

あーー、そーかそーか自分はそういうやつなんだ。自分に対して自分はどれほどのパッと聞こえはいい期待という名の負担を与えていたのか。
別に普通に生きて、普通の幸せをつかんでいいんだと。あんか、笑顔になったよね。結局自分も周りと同じように一緒に笑って、わちゃわちゃして日々過ごしていけるって。
でもこれはほんの心のゆるみに過ぎなかった。

自己肯定

自分は自己肯定感が低い。しかし、それに相反するパット気が引けるような事実も自分に持ち合わせてはいない。
例えば、本当は一般的に見てもかわいいのに過去のトラウマや家庭内問題など外部的環境の影響で自己肯定感が低くなっている。とか。ごく普通の環境に生まれ、ごく普通に育ち、今まで経験したこともドラマチックになりそうなことは何もない。なのに、いつのまにか、自分の自己肯定感はすごく低く、性格も気づかぬうちにひん曲がってしまった。
せめて、スタイルがよかったら、目鼻立ちがよかったら、せめてせめて、顔がもうちょっとだけ小顔になったら、鼻がもうちょっとだけ小さかったら。
小学校の頃ぶたといわれるようなことはなかっただろうに。小学生は純粋の暴力に満ちている。だからこそ、彼らが言う言葉には大人が言う偽善やひねくれのようなものではなく、事実が多い。

いくら頭を良くしたところで自分の立場を俯瞰したところで窮地に追い込むことの方が大きい。生きている価値があるのか。そんなことを良く思う。とっとと生まれ変わって美男美女、絶世のというレベルまでいかなくていいから一般社会で言われているまあ、かわいい、まあ、かっこいいというレベルの外見とまあまあのスタイルの良さを手に入れた方が人生いいのでは。なんてよく思う。
ほんと、死んだ方がましなんじゃないか。
でもな、死ぬと終わりなんよ。ここで終われないんよ。自分の人生。自首とか自らゲームオーバーするの、ほら、逃走中で一番放送後ネットで炎上する奴やろ?あれにはやっぱなりたくないねん。
最後まで頑張って頑張ってもがいてもがいてくそくそくそくそくそーーーーーーとか思いながら生きていくのがいっちゃん主人公らしいやん。自分の人生の。だから、私はとりあえず生きてる。
抽象を具体にして、その場しのぎかもしれないけど”生きてるだけでも恩の字”とかいうありきたりだけど生きるということの原点を大切にしながら。

 

では、また。
コロナ禍の頃の下書きより。

discussion とは

2020年10月

オンライン授業というのを経験してからというもの、私の意見はがらりと変わった。

最近、高校の英語の授業でものすごく行ってきたdiscussionたるものをオンライン授業だということもあり、やってないな~と思ってきた。正直言ってしまうとdiscussionをやらないというのはなぜだか、心地がいい。気が楽という感覚に近い。

 

そもそも、自分の意見というものを無理に共有する必要なんてあるのだろうかと思ってきた。高校でのdiscussionの目的はぼーと生きてる私たちにもっと考える癖をつけるというもの。しかし、今の私は常に拙いながらも何かを考えている。仲間の意見を聞くことで刺激を受ける。だが、その刺激の受け方というものがなんか違うと直感が言っている。私の場合、計画的に行くより、直感でものを進めたほうがうまくいく(もちろん凸凹はあるがより満足しか結果が得られるという意味で。)そして、その直感が違和感というものを覚えている。ちょっと違うなと覚えた直感だけでものを語ってしまうのは早急かもしれない。では、なぜそんなことを感じてしまうのかという事の発端を考えてみた。例えば、私が最近discussionした中でのtopicは環境問題、Gender Studies、人権問題、日本経済などなど。どれもよりよい未来をつくるために直結するようなtopic。ただ、discussionをしたところで何が変わる。ぺらぺらと偉い口をたたいて自分は賢い人間です、と自分に言いつけているようにしか最近思えなくなってきた。より良い未来のためにdiscussionをしたところでこの世界は絶対に変わらない。変えようと努力してもそれは単なる自己満足だとしか思えない。

 

こういう自分勝手な意見を持ってしまうのにも明らかに理由がある。それは自分には守るべき存在というものが何一つないからだ(と思う)。もし、仮に今、自分に子供がいたらこんなにも自分勝手な意見というものは絶対に持たないと思う。少なくとも、近い未来のことまでは考える。ただ、分からない。もしその子供も、私とおんなじ意見を持っていたら安心して、考えを戻してしまうかもしれない。

私は、この世、この世界、この社会に対してなめてかかっているという自覚はある。大人になるというのは、この貴重で弱い違和感という蟠りを踏みにじって生きていかなければならないのか。だとしたら、そんなのはロボットという心すら持たないものに任せたほうが絶対に効率的。自分という存在は、自分の心というものに忠実に従って初めて確立さえるものだと私は思っている。つまり、その自分の心を破棄してしまうというのは自分の存在意義というものを同時に捨てていることに値するのではないか。と。

正直、教授に褒められようと、先生に褒められようと、指示に従ってその中で自分の全力を尽くしているときよりも、こうしてタブーかもしれないけれど自分の考えというものに忠実に従ってそれを文字化してだんだんと自分というものを確立しているときの方がよっぽど生きているという実感を得られる。

 

 

今まで、自分が率直に思った意見などは、特に誰に言うわけでもなく日記みたいにノートに書いていたけれど、今になってこうして誰かの目が届くような場所に自分の考えというものをさらしだしてしまうというのはそれだけ自分の心というものが限界を迎えているのかもしれない。

結局いつまでも偽物のまま。心が歪んでいてぐうの音も出ない。

これを読み直して恥ずかしく感じたらこの投稿を消そうと思うので明日の朝にはもうなくなってると思うが、そんな消すということを忘れてもしかしたらずっと残っているかもしれない。こんなにもくだらないことまで書いてしまうのは俗に何というのか。

まあ、深夜テンションとでもいうのだろう。

30代の19歳塾講師

最近、ネタがバイトばかりになってる。それぐらいしか自分の周りに変化がないというのが事実( ;∀;)。バイトしか外に出ることがないのかと言われれば、そういうわけでもない。ここ一週間は美術館に行ったり友達と会ったりと比較的アクティブになってる。が、しかし、やはり一番面白いことがあるのは自分のことをあまり知らないがそれでもある一定の時間は同じ空間で、生徒と講師(アルバイト)という関係の上で過ごさなければならないという私の中では結構珍しい環境を機械的に提供してくれる塾のバイトである。人見知りが激しい私はお互いのことをあまり知らない人と同じ空間に身を置くことを極力避けてきた。しかし、講師という地位をあの小さな空間の中だけで得たあの時だけは教えるという武器がある限り、身を置くことができる。

 

最近は、その教えるという授業についていろいろと思うこともあるがそれは置いといて、その授業が終わった後にあった面白い出来事について、ついつい書かずにはいられなかったので話そうと思う。

 

ではでは、本題に入ります。

 

 

 かれこれ一週間も前の話だが、結構衝撃だったらしく頭から離れない。私は新人という身で塾講師のバイトに入ったから未熟さというのを言い訳にちょこちょこ甘やかしてもらっていた。知らない部分や間違ってしまった部分があっても仕方がないみたいな。ただ、これは生徒には通用しないのだと今回のことを通して強く痛感した。

 

 

 

私と生徒の会話

 

生徒「せんせ~聞いてくださいよ~。わたしの弟めっちゃだらしない癖に潔癖症で私に部屋を掃除させるんです~。だから、宿題やる時間が~、、、」

 

私「そっかー、でもまあ、とりあえず次回テストのところが読むだけで覚えられるから頑張れ、」

 

生徒「せんせーは兄弟いるんですか~?ってか、こどもとかい、ます、か?(首傾げる)」

 

私「(?!?!!!!!)いや、兄弟はいるけどこどもはいないよ、、、結婚して、ない、から、、、」

 

生徒「えー、じゃあ、先生何歳ですか???なんか、30歳ぐらいにみえる。(割と真剣の顔)」

 

私(心の声)(まーじーかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!)「ほう、そうか、まあ、とりあえず、教えられないことになってるから、、、(あまりにも突然のこと+超衝撃的なことだったので気の利いたことが言えなかった( ;∀;)、すまん」

 

生徒「そうか、じゃあ、彼氏はいる??」

 

私「ん?、え、いないなー」

 

生徒「じゃあ、好みの人は??」(ここからの生徒のセリフは私が普段友達にしてる内容すぎていろいろと思考がこんがらった)

 

私「んーなんだろうなー(スーツ着てる人好きだけどなんか勘違いされそうだしな~、、、)」

 

生徒「職場とかで気になる人はいないんですかー?」

 

私「(んっ??心読んだ??)いやー、いないいない。(マジで)」

 

生徒「じゃあ、恋愛がなんだか分からない感じ、なんですか?」

 

私「(なんだか違う気がするけど) たぶん?(ふっ、これじゃあYOASOBIのたぶんじゃん(笑))」

 

生徒「じゃあ、私が教えてあげる!!私いっぱい好きな人いるから!」

 

他の生徒「いや、○○はいろいろ変わりすぎなんだよ」

 

私「ははは、(なんか、これデジャヴだと思ったら私の後輩にもこんな子がいたわ)じゃあ、来週テスト頑張ってね」

 

さいなら~

 

Fin

 

といった具合だった。ここまで鮮明に覚えているのはやはり相当衝撃的だったんだと思う。まず初めに自分はそんなに老けてたか。確かに他の女のバイトさん方と比べると化粧もしてないし、髪もてきとーだった。完全に女子力崩壊ゲー。だからと言って30歳ぐらいと言われこじつけた感は強いが嬉しい面もあった。自分は新人のバイトだからと至らぬ点がいっぱいあるというのを徐々に直していけば大丈夫だろう、と甘じていた。ただ、一応社員だと勘違いされている限りはそれに見合った自信というものを付けなければならいと実感した。といことで何とか立ち直る方法を探している。(結局傷ついてるんかーーいw)

 

 

そういえば彼女と同じ私が中学生だった頃、職場体験でお世話になった和菓子の職人さんにも本当は19歳(中学を卒業してすぐに修行に入ったらしい。スゴイ)なのに32歳とか言ったことがあったなーと今になって思い出したとさ。(笑)

HSP??

先日、YouTubeを見ていたらHSPというものを知った。ちょっと興味があったのでさらに調べてみると自分はそのHSPというのに結構当てはまっていた。

HSPというのはHighly Sensitive Personの略らしく非常に感受性が強く敏感な気質を持った人を指すらしい。

確かに昔から映画を見た後はその主人公になった気分になったり、パラサイトを観たときなんかは一週間その余韻が抜けなかった。また、高校では毎度感想を書かないといけない授業なんかではいつまでも書き出せないことが多々あった。まあ、考えすぎてしまうんだと思う。新しい人と会うのは正直ストレスだし(大学の友達と会う時はかなりしんどかった)、かといってずっと誰にも会わないと鬱に近い状態になりがち。(自分は鬱になっていないと信じたいが、客観的にみると鬱状態になっている。( ;∀;) で、こんなめんどくさい人にも非常に良き友達がいる。よくよく考えてみると私の友達も私に非常に近い性格を持っていた。すごく完璧主義で授業が一緒の時は授業後、一緒に感想を悩んでなど。

昔から自分のコンプレックスだと思っていた部分がその友達も持っていて共有できるというのに安らぎを感じていた。本当に良い友達を持ったもんだ。そして今回、このHSPというのを知って自分に対して自己嫌悪を抱いてしまう部分もそれに当てはまるものだと知って1つ肩の荷が下りたというか、なんだか今まで持っていた緊張感みたいなものが薄らいだ。

 

しかし、ここで不審に思ったのは感受性が豊かというものはある意味では個性となる部分なのにも関わらず、ちょびっと珍しいからとそれに名称を付けて締めくくっていいのかということだ。確かにこういうものがあると言って情報を提供してくれるのは今回の自分と同じように安心を与えてくれるかもしれない。

ただ、何でもかんでも知識というもので武装しようとするのはとても見苦しいと感じてしまう。これは大いなる矛盾だが、それでしか自分というのを守れないというのも事実である。

 

どう動けばいいのか。結局分からず終いだが、まあ、今まで通りマイペースに過ごしていこうと思う。

 

 

たぶん火垂るの墓はまだまだ観れそうにないし針の先端は凝視できないしレポート書くのは遅いかもしれないけど、違う大学に行っている良き友達が支えになってるのでAll OK(笑)

さあ、困ったな~

今、バイトとして塾講師をしているわけだけれど、なんだかスランプ的な状況に突入したらしい。何か新しいことを始めるにあたって私の場合、最初の方はただただ楽しいということばかりが頭を占領する。マイナス要素は受け入れすらしない。まあ、突っ走っている感じなのかな。

夏期講習に入る前はコロナのこともあり、5,6,7月は一切授業がなかった。4月ですら2回しただけ。5月は給料がちょっとあったが6,7月はゼロ。でもまあ、金銭的には正直そんなに欲深いわけでもないから困らなかった。問題はこの何もない、ただ大学の授業を受けてあとは趣味に明け暮れて、若干の昼夜逆転の生活に慣れすぎてしまっていた。いざ、バイトが始まるとなると授業の予習もしなくちゃいけないし、容姿もそれなりに整て外に出なければならない。外に出るという行動が鬱になってしまったのだ。これが一つ目の困ったな~。でも、最近は慣れてきたから良し✊

 

正直上位のことは困りの微少に過ぎない。そもそもの問題ははじめの方にも書いた通り、バイトがつまらないと感じてきてしまったことだ。始まった当初はやる気満々だったのに夏期講習が始まるにつれて毎度のアドレナリン要素がだんだん減ってしまっているらしい。いや~困りましたね~。でもまあ、行かないと金もらえないので行ってるんですが、(こんなこと言うのはようないね。思っても多分口にしていいことではない 😿)

どうしてこうなってしまったんでしょう。自分はいい加減にやることがとても嫌いで、だからと言って自分の中にしっかりとした完璧の定義があるわけでもない。この不透明の部分がものすごく私の頭を痛ませてます。

入ってきた時期が時期なんでしょうか。(ん??言い訳??)新人が自分一人だけというのはちょっとしんどいですね😿、うん、、、

 

あと、困ってるのは、、、

 

いや~以外にも上げていたらいっぱいある。でもこうして文字に起こしているのはやっぱり解決したいっていうのもあってのことだから悪くはないと信じてる。そもそも、読む人もほとんどいないからね、、気楽

 

で、困ってるのは、あれ、なんだったけ???

 

 

とチャラく終わらせたかったけど、ずっと頭の中に残ってる。なんというか、いまいち塾生に勉強のやる気を出させることができない。感じ?やる子はどんどんやる。やらない子はいつもふにゃふにゃ。見たくない部分を俯瞰してみなくちゃいけないという現実に耐えられる体制に入っていないのかもしれない。あと、やっぱり自分の授業の質なんかもものすごく気になる。かといって、ずっと見ないでほしい。いろいろな気持ちが混ざりますね。まだ小6とか中1の子たちだからしょうがないけど、、、

自分ももっと自信を持った話し方をできるようにしたい。そもそも最近、人と話してないからだんだんと忘れてきている。高校の頃の方が、プレゼン力は全然あった気がするけど、今と昔では自分の中の基準も変わってきてるし、環境も全然違うから淡々とできるようになりたいです。

 

こういうのは悩めるだけ悩んで、いつか入れ替えて淡々と戻っていきたい。自分は自分。精神統一。

 

ヒトリエ4

ヒトリエのベストアルバム「4」が19日にリリースされた。

先日、ギターを買ってしまったこともありアルバムは買えていない。( ;∀;)

 

リリースを伴って今のヒトリエメンバー、シノダサン、ゆーまおさん、イガラシサンはいくつかのインタビューを受けていた。すべての記事を読んで自分の中で気づかされたことを今日はここで書きたいと思う。

 

ヒトリエに出会ったのは正直な話、結構最近。はじめにアンノウン・マザーグースを聴いたのがきっかけ。それからというもの、amazon musicで聴けるかチェックしたらまさかの人間が歌っているのを見つけてびっくり。その人がその歌の作詞作曲もしたwowakaさんだった。(最初は高い部分とか加工だと思ってた自分が恥ずかしい、、、。)そこからwowakaさん率いるヒトリエというバンドに出会った。初めに聞いた曲はカラノワレモノやるらるらだった気がする。とにかくその時は受験も終わって、だいたいの興味のあるyoutubeもほぼ見終わって次に来るものと言ったら音楽だった。

今まで手を付けていなかったボカロという音楽に巡り合えたこと、巡り合うきっかけを無意識のうちに与えてくれたyoutuber、はなおさんに感謝。(歌ってみたで知れた)

 

wowakaさんが作り上げる曲、ヒトリエ全体で完成までもっていく曲はとにかく斬新でものすごくかっこいい。いままでいろんなことを気取って生きてきた私、それに自己嫌悪さえも感じていた私の心の臓はものすごい勢いでつつかれた。音楽、音がかっこいいのはもちろんだが、第二の醍醐味として歌詞をよくよく考えさせられるという私にとっては絶対に飽きない曲たちの集まりだった。もっといい言い方があるのだろうけど思いつかない( ;∀;)

こんなにもいい曲を私たちに与えてくれるバンド、方々に巡り合えてとっても、心の底から嬉しかった。いろいろな意味で落ち込んでいた当時の自分が多分曲に重なったのだろう。ヒトリエの曲が本当に心の支えになってた。だからこそ、コメント欄で目に入ってしまったwowakaさんがもうこの世にいないというのを知って、文字の通り体ごと、私の中のすべてがどん底に落ちてしまった。wowakaさんのtwitterとかを読むと、こんなことを言うのはおこがましいかもしれないが、私と価値観が似ていて、私があきらめようとしていた夢を本当に貫き通したすごい人だということが分かった。いうまでもなくwowakaさんはありとあらゆる才を持っていた。

 

しかし、そんなwowakaさんがこの世にはいないというのはある意味で私の人生観というのを変えた。私たちはいつどこで息を止めるかわからない。そして息をし続けることができるのはこの肉体では一度だけなんだって。だから、妥協というのを通用しない自分の夢というのを貫き通せる者になろうと決意した。

決意したはいいが、今はこんな状態だから大した行動もできない。ここでまた気分は上がり下がりしたのだがまあ、まあ、まあ、、、、うん、、、

そんなこんなでいろんな思いが左右していた時にヒトリエのベストアルバム4がリリースされた。

ここ最近はいろいろと生きる気力すらなくなっていた。なんというか、恥ずかしい\\\\____

3人のインタビューを読むと彼らは先に向かおうとしているんだな。気づかぬうちに私の時計が止まっていることに気づかされた。ここ最近は生産性のないことばかりをやっている。それがだめなんて誰かが決めたわけじゃないけど心のどこかでは自分に対して苛立ちというのを感じている。それをまた心のどこかで大丈夫なんて言い訳もしている。そんな自分の醜い部分が浮き彫りになってしまい、今度は恥ずかしさというよりかは、自分に飽きれもしないが、何とも言えない感情にさらされた。(多分言いたくないだけで絶望の類だと思う)

 

やっぱり言い訳というのが自分の中では一番かっこ悪いんだなというのが分かった。日々、もがき苦しむのが当たり前の生活になってしまった。

もっと、人間になりたい。そう思う、この頃です。

 

 

アルバムが買えない代わりに私はamazon music(unlimited)で「4」の並び順のplaylistを作ったとさ。